高田城(たかだ) | |
別称 : 鮫ヶ城、関城、高陽城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 松平忠輝 | |
遺構 : 濠、土塁 | |
交通 : えちごトキめき鉄道高田駅徒歩20分 | |
<沿革> 慶長十九年(1614)、徳川家康の六男で越後福島藩主の松平忠輝によって、福島城に代わる 新たな居城の建造が計画された。普請は三月十五日に始まり、総奉行は忠輝の岳父・伊達政宗 が務め、計13家の大名が動員された。七月五日には、一応の完成をみて忠輝が入城している。 当初は天守台を石垣造とする予定だったともいわれるが、結果としては総土塁の城となった。 元和二年(1616)、理由は諸説あるが、将軍・徳川秀忠の命により忠輝は改易された。代わって 酒井家次が高崎から10万石で高田に入城している。同四年(1618)に家次が没すると、嫡子忠勝 は翌五年(1619)に松代藩へ転封となった。入れ替わりで松平忠昌が松代から高田25万9千石で 高田藩主となったが、同九年(1623)に兄忠直が福井藩を除封されると、その所領のうち50万石を 忠昌が継承した。 翌寛永元年(1624)、忠直の遺児仙千代が26万石で高田藩に封じられ、光長と名乗った。寛文 五年(1666)に高田地震が発生すると、家老の小栗正重や荻田長磐などが圧死するといった甚大 な被害が生じた。それまで高田城には唯一の櫓建築として二重櫓があったとされるが、この後に 三重櫓として再建されたとみられている。 延宝二年(1674)、光長の嫡子綱賢が嗣子なく没すると、後継ぎを巡って一族重臣間の争いが 勃発した(越後騒動)。一旦は将軍家綱の裁定により小康を保ったものの、同八年(1680)に家綱 が世を去って弟の綱吉が将軍に就くと、改めて高田藩改易の裁定が下された。翌九年(1681)に 光長が高田城を出ると、高田藩領は天領となり、周辺諸国の大名が2家1組の1年交代で城番を 務めた。 貞享二年(1685)、京都所司代を罷免された小田原藩主稲葉正往が、懲罰的に10万3千石で 移封されて高田藩を再興した。後に老中として復権した正往は、元禄十六年(1701)に佐倉藩へ 転出した。 その後、戸田忠真・久松松平家5代と続き、寛保元年(1741)に榊原政純が15万石で姫路から 高田藩へ移封となった。榊原家は徳川四天王の1人・榊原康政の直系であるが、政純の父政岑 は将軍吉宗による倹約奨励下で吉原遊びに耽り、強制隠居と懲罰転封を命じられたものである。 しかし、隠居後の政岑は幼君を支えて藩政に邁進したといわれ、藩主家も榊原家で安定し、6代 (政純は夭折し、弟の政永がすり替わったため実際には7人)を数えて明治維新を迎えた。 <手記> 高田城址公園はライトアップがきれいだとかで近年ちらほらと一般向けの旅行パンフなどでも 見かけるようになりました。しかしながら、私が訪れたのが天気のすぐれない日中だったという点 を差し引いても、正直に言って残念感の強い城跡でした。 二重の広い水濠がかなりの部分残っているのは特筆に値しますが、本丸は多くが陸軍駐屯地 として取り崩されて改変されており、三重櫓は上記の観光化が進み過ぎている所為かリアリティ に欠け、城跡オタクの視線で見るとどうにもトキメキが湧いてきませんでした。 城跡としては、曲輪と濠の広大さが印象的で、さすが75万石ともいわれる家康の子のための城 だと感じ入ります。逆にいうと、多くの近世城郭にいえることですが15万石では維持が大変だった ことでしょう。そういう意味では、総土塁に櫓が1基だけというのは、榊原家にとってむしろ好都合 だったのかもしれません。 それにしても、これだけの巨城をわずか4か月で築き上げたというのは、どうにも個人的に半信 半疑です。さすがに、忠輝が移り住んだ時点では内堀と外堀が掘り上がっていたという程度では ないかな〜っと、個人的に思っています。 |
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内堀と三重櫓。 | |
三重櫓を郭内側から見上げる。 | |
三重櫓からの眺望。 | |
本丸のようす。 奥の土盛りは遺構ではないようです。 |
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本丸南辺の水濠と奥に極楽橋。 | |
本丸北東隅の鬼門除けの屏風折れ。 | |
本丸北辺の水濠。 ハス園になっています。 |
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本丸東辺の水濠。 同じくハスが名物のようです。 |
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城内南西隅の瓢箪曲輪跡を望む。 |