上茜部城(かみあかなべ) | |
別称 : 茜部城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 堀資重 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR東海道線岐阜駅よりバス 「上茜部」バス停下車 |
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<沿革> 堀資重により築城されたといわれるが、築城時期は不明である。資重の子孫である秀重は、 はじめ斎藤道三、後に織田信長に仕えた。秀重の子で、「名人久太郎」の呼び名で知られる堀 秀政は、この城で生まれたと伝えられる。秀政は信長の小姓として見出され、その後豊臣秀吉 の寵愛を受けた。天正九年(1581)には近江国坂田郡内に2万5000石を与えられ、同十三年 (1585)に越前北ノ庄18万石に昇進した。 坂田郡加増の際に長浜城に移ったとされるが、この点については明らかではない。ただし、 遅くとも北ノ庄を与えられるまでには、上茜部城は廃城になったものと思われる。 <手記> 岐阜駅からバスに乗り、茜部本郷バス停で降りて北に少し歩いたところに石碑が建てられて います。これは秀政の没後400年のときに、顕彰碑として建てられたもののようです。 遺構は残っていません。北東すぐのところに船田城や川手城・中世加納城といった土岐氏の 守護所と付属の城館跡があります。それゆえ、当初はそれほど大きな城を築くわけにもいかな かったはずで、信長進出以前の上茜部城は館程度のものであったと考えられます。 ところで、近江坂田郡には鎌刃城主として近年注目されている堀秀村という人物がおり、同姓 で通字まで同じということから、短絡的な文献は近江堀氏が美濃まで勢力を伸ばして上茜部城 を築いたと書いています。しかし、地図を一目見て分かるとおり、その場合堀氏は美濃三人衆を はじめ名だたる豪族を飛び越えて所領を拡大していたことになり、無理があるように思います。 近江堀氏との関係自体を否定することはできないでしょうが、何らかの理由で資重が近江から 美濃へ移住してきた(あるいはその逆)と考えるのが自然でしょう。ちなみに、美濃堀氏は斎藤 氏流、近江堀氏は菅原氏流ともいわれていますが、いずれも出自ははっきりしていません。 |
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上茜部城址石碑。 |