光寿庵砦(こうじゅあん) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 不明 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : JR高山本線飛騨国府駅徒歩50分 | |
<沿革> 明確な遺構は残るが、史料にはみられず詳細は不明である。光寿庵とは沢谷戸を挟んだ 西側の峰上にあった古刹で、出土瓦から奈良時代には存在し、少なくとも永享八年(1436) までは存続していたといわれる。 <手記> 宮川右岸の山塊の一峰に築かれた城砦です。同じ山稜には、西端の山崎城からはじまる 城砦群が点在し、一般には天正十三年(1585)に対岸の広瀬城や高堂城に籠もる姉小路 頼綱軍と対峙した金森長近勢の陣城とみられていますが、確証はありません。 麓の諏訪神社脇から沢沿いの林道を遡り、ヘアピンカーブになっているところから山肌に 取りついて直登すると、最後尾の堀切や竪堀に出ます。堀切の規模は大きく、これに接する 主郭背面には土塁もみられます。他方で郭内の削平は甘く、前方に行くにつれ自然地形と なっていました。 そこからやや自然尾根を下ると、もう1条大きな堀切があり、その向こうが副郭のようです。 副郭はサイドにも切岸形成がみられ、また前方にも、ごく浅いものの堀切状地形が認められ ます。南麓には山崎城や高堂城の城主であった広瀬氏一族の墓がありますが、砦との関連 があるのかは不明です。 明瞭な堀切と曖昧な曲輪形成という特徴は、西の陣ヶ平砦と合致しており、両者の築城主 は同一である可能性が高いでしょう。ただし、それが金森氏であるかどうかは、私は留保が 必要と考えます。 第一に、陣ヶ平砦はともかく、光寿庵砦からは広瀬城や高堂城が見えません。松倉城との 連携を嫌ったといえなくもありませんが、それなら広瀬城の南方の寿美峠を押さえなければ 意味がないので、金森勢がここに陣城を構える積極的な理由が見当たらないのです。 第二に、比較的短期間で決着がついたとはいえ、織豊自体の陣城としてはあまりに規模が 小さく構造もお粗末です。とくに金森vs.姉小路は前者が終始有利だったわけなので、兵士の 駐屯スペースよりも堀切の掘削を優先させるというのは違和感があります。 そこで私見としてクローズアップしたいのが、江馬氏の存在です。光寿庵砦のひとつ東側の 山道を上がると今村峠があり、これを越えると天正十年(1582)に大坂峠から南下して侵攻 してきた江馬輝盛と姉小路頼綱の決戦地となった八日町があります。江馬氏は、一説には 武田氏に属して永禄七年(1564)に高山盆地の三仏寺城を与えられたともいわれ、最盛期 には今村峠の南麓まで勢力圏に収めていた可能性もあるのではないでしょうか。その場合、 対広瀬氏や三木氏(姉小路氏)の前哨として、陣ヶ平砦や光寿庵砦が築かれたとすれば、 砦の規模や構造、造作の甘さなども合点がいくように思います。 |
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諏訪神社門前から光寿庵砦跡を望む。 | |
最後尾の竪堀。 | |
同じく堀切。 | |
同上。 | |
堀切上の主郭背面土塁。 | |
主郭のようす。 | |
主郭前方尾根のようす。 自然地形に見えます。 |
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堀切越しに副郭を望む。 | |
副郭背後の堀切。 | |
堀切上の副郭背面土塁。 | |
土塁上から堀切を見下ろす。 | |
副郭のようす。 | |
副郭サイドの切岸。 | |
副郭前方の堀切状地形。 | |
山麓の広瀬氏一族の墓。 砦と関連があるのかは不明です。 |
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光寿庵跡の石碑と説明板。 光寿庵自体は諏訪神社背後の峰上にありました。 |