山田城(やまた) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 不詳 | |
遺構 : 堀、土塁、虎口、土橋 | |
交通 :東武東上線森林公園駅よりバス 「公園南口」バス停下車徒歩10分 |
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<沿革> 忍城主成田氏家臣贄田氏ないし小高氏の城であった、あるいは松山城の出城で あったとの土地の伝承が存在するとされるが、史料には登場しない。現地説明板に は、天正十八年(1590)の小田原の役に際して前田利家によって攻め落とされたと あるが、典拠は不明である。 <手記> 山田城は、滑川に突き出た緩やかな丘陵の頂部に位置しています。現在は国営 武蔵丘陵森林公園の敷地内となっていて、保存状態はきわめて良好です。山頂の 地形に合わせた楕円形の横堀と土塁に囲まれた城内は、さらにいくつもの折れを もった仕切り土塁によって、大きく4つか5つの区画に分けられています。その中心 には主郭と目される、一部堀を伴った土塁に囲まれた区画があり、ここに説明板が 設置されています。 山田城について、一般には松山城の出城という考え方が広まっているようですが、 私はこの見方には懐疑的です。というのも、第一に扇谷上杉氏の城である松山城 に対して、山田城には山内上杉氏の特徴が色濃くみられます。私見ではあります が、外周に横堀を用いるのは山内上杉氏の築城術です(詳しくはこちらを参照くだ さい)。また、大枠の外郭の内部を、細かい折れをもった堀や土塁で仕切るという 手法も、山内上杉氏が川越城攻めの際に構築した上戸陣と同じです。第二に、城 のある丘は松山城のある南側を向いています。加えて、山田城の南隅には櫓台状 の張り出しがあり、仮想敵が南方にあることは明らかです。 これらのことから、山田城は長享元年(1487)に始まる長享の乱に際し、松山城の 扇谷上杉氏に対する山内上杉氏側の最前線の陣城として築かれたものとみるのが 妥当と考えられます。事実、『豆相記』によれば山田城付近の岩戸峰福田邑(現在 の滑川町福田)で両氏の戦闘があったとされています。さらにいえば、指呼の間に 散在する山崎城や谷城、城原城(城原城については実在したか疑わしいですが) と併せて、陣城群を形成していたとみることも可能かと思われます。そして、北条氏 の勢力が拡大して両上杉氏が武蔵から駆逐されると、とりたてて要害性も戦略性も ない山田城は、そのまま廃城となったものと推測されます。 ちなみに、山田城を訪れるには、森林公園の入園料410円と、車を利用する場合 はさらに260円が必要です。また、『日本城郭大系』などでは読みを「やまだ」として いますが、現地の山田の地名は「やまた」と読みます。 |
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山田城址を望む。 | |
外周の横堀と土塁。 |
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同上。 | |
同上。 | |
東辺の土塁と虎口。 | |
クランク状に折れた堀。 | |
城内の主郭と目される区画。 | |
主郭を形成する土塁と堀。 | |
城内の仕切り土塁。 |