関ヶ原考


  1、はじめに

     私は数年前から、中山道の歩き旅を断続的に進めています。とはいっても、当記事の執筆時点でようやく中間地点を

    越えたばかりです。歴史つながりではありますが、城跡巡りとは一歩離れて純粋に歩き旅の風情を楽しんでいるつもり

    です。しかし、やはり付近に城跡があると、余裕のある旅路ではないことも忘れて寄り道してしまいます。

     69ある宿場の1つに、関ヶ原宿があります。その名の通り、周辺は天下分け目の関ヶ原の古戦場です。残念ながら、

    石田三成の本陣跡である笹尾山や徳川家康の桃配山はじめ、東西諸将の陣跡を見てまわる時間的余裕は、ありませんで

    した。要は関ヶ原古戦場を貫いて中山道を歩き、街道沿いにあったとされるいくつかの陣跡を見学したに過ぎません。

     ですが、それだけでも百聞は一見にしかず、それまでの私の関ヶ原の戦いに関する知見に大きな波紋を投げかけられ

    た気がしました。今回の論説は、このときに私の脳裏に浮かんだ3つの疑問について考察を加えたものです。いずれも、

    一度ブログで記事にしたものを、まとめ直したものになります。


  2、小早川秀秋の評価


     関ヶ原というと、見通しの良い原っぱで縦横無尽に戦いを繰り広げていたように思われるかもしれませんが、実際に     野原に陣取っていたのは東軍のみで、西軍は関ヶ原西方の山々に陣を張っていたようです。また、両軍の間には藤古川     という谷川が深い谷を形成しているため、先に攻撃を仕掛けた東軍は、一度谷底に下りてから山上の敵を目指して攻め     上らなければならず、川と谷を天然の濠として防御線を敷いていた西軍に比べれば圧倒的に不利な地形条件にあったと     いえます。つまり立地上も、また東軍を包囲する形の西軍の陣形や兵力差からも、東軍は戦う前からかなり不利な条件     下にありました。
      
                東西両軍が境としてにらみ合った藤古川

     それにもかかわらず東軍が勝利できたのは、家康陣の背後を脅かしていた吉川広家と、石田三成本陣よりも高所の松

    尾山に大軍を擁していた小早川秀秋の2人が内応したからに他なりません。

     逆にいえば、両者が内応するという確信と保証がなければ、経験豊かな戦巧者の家康がそんな死に体ともいえる布陣

    で決戦に臨むはずがないように思います。

     一般にいわれている小早川秀秋像は、どちらにつこうか散々迷った挙句、家康の威嚇射撃に驚いて寝返りを決意した

    優柔不断なボンボン武将といったものでしょう。たしかに、秀秋は決戦が始まっても一兵も動かさず、日和見のような

    態度をとりつづけていましたが、果たしてそれは単に優柔不断だったからと決め付けられるものなのでしょうか。事実、

    家康による松尾山への射撃は、戦場を突破しなければならないことや、山の標高差で音が伝わらない可能性を考慮すれ

    ば、不可能だったのではないかとする意見もあるようです。また、秀秋にしてみれば、自分が勝敗を左右するほどの大

    軍を有していること、三成が大坂城を出ようとしない豊臣秀頼の代理として秀秋を擁立したこと(秀秋は豊臣秀吉の甥

    にあたる)、そして三成の本陣より高所の要地(松尾山には陣どころか、城に近いものが築かれていたことが明らかに

    なってきています)に陣所を構えていることなどから、自分の参戦が勝者を決することぐらいは自覚していても当然の

    ように思います。秀秋は、松尾山に陣取る際、先に到着していた伊東盛正などの小大名を無理やり追い出して山を占拠

    しましたが、これも自身の決定力としての立場を明確にしようとしたのだと、ポジティヴに評価する材料になると思い

    ます。

      
                        松尾山遠望

     このようにみれば、暗愚でうろたえるばかりの凡将というより、じっと高みから戦局を見極めつつ、最も自分の功績

    をアピールできる機会を逃さず、勝敗を決する下知を下したのだとするほうが、一国一軍を率いる大将の視点や思考に

    立ってみて妥当なように思われます。そして、このように冷静に利害計算ができる武将だったからこそ、家康はその内

    応を確信し、前提として関ヶ原決戦に臨むことを実行できたのではないかと考えられます。

     戦後、秀秋は大幅に加増されて岡山に移封します。現在の岡山城の基礎は秀秋によって築かれ、内政でもなかなかの

    善政を敷いていたようですが、僅か2年後に21歳の若さで急逝します。死因については明らかなことは分かっておらず、

    発狂によるものや関ヶ原で自刃した大谷吉継の怨念といったものまであります。ただこの死も、加藤清正や浅野幸長の

    ように、有力有能な秀吉恩顧の大名に対する疑惑の死の1つに数えることもできるように思います。もっとも、真相は

    闇の中ですが。

     こうしてみると、小早川秀秋の裏切りについては、彼自身の評価も含めて再研究・再評価が必要であるように思われ

    ます。


  3、なぜ関ヶ原を決戦地に選んだのか

     前節では、小早川秀秋の寝返りの確実性がなければ、布陣や地形・兵力で俄然不利な家康が関ヶ原決戦に持ち込む理

    がなくなってしまうという疑問から、秀秋の再評価を試みてみました。しかし、それでもなお関ヶ原での決戦を両者が

    選んだ理由には大きな疑問が残ります。大別すると、

    @なぜ関ヶ原を決戦地に選んだか。
    Aなぜ両者とも大垣でのにらみ合いから、にわかに短期決戦に転じたのか。
    の2点にあります。そこでまずは前者について考えてみたいと思います。      従来の説では、家康が大垣城に籠る西軍主力を放っておいて、石田三成の居城である佐和山城(滋賀県彦根市)を落     として大坂へ向かうとの情報を流し、実際に東山道(今の中山道)を進軍し始めたため、三成も急遽先回りして関ヶ原     に戦陣を張った、といわれています。      しかし、この定説もいくつかの疑問点や矛盾を孕んでいるように思われます。      そもそも、会津の上杉景勝討伐に赴いていた家康が軍を西に転じたのは、家康打倒を掲げた石田三成の挙兵に対して     のものであり、両者とも大坂の豊臣家には他意がないこと(むしろ豊臣家の御為)を標榜しています。家康も三成も、     お互いの排除が目的であり、とくに東軍には「三成憎し」の一心で参加している福島正則や加藤清正といった秀吉恩顧     の武将も多くいました。であれば、三成を無視して大坂へ向かうなどという選択肢は、そもそも考えづらいように思わ     れます。      また、最も代表的な反論として、もし家康が本当に大坂へ向かったのならば大津城(滋賀県大津市)攻めに当たって     いた別働隊や、西軍の盟主である大坂城の毛利輝元の部隊と挟撃すれば良いわけで、西軍としてはむしろ万々歳である     はずだ、とするものがあります。     
      

      
        上:彦根城から見た佐和山城址  下:浜大津駅前の大津城址碑

     では、西軍は何を恐れて、夜陰に紛れて南宮山麓の長宗我部軍の篝火だけを頼りに関ヶ原へと進軍を急いだのでしょ

    うか。ここからは全くの私見ですが、三成としては小早川秀秋の陣取る松尾山が落とされ、更に佐和山城を落とされる

    ことを恐れていたのではないでしょうか。小早川秀秋はもともと内応の噂の強かった武将だったので、東軍の大軍に松

    尾山を囲まれれば、そのまま寝返ってしまうことも容易に想像されたはずです。小早川の大軍と松尾山城を手に入れれ

    ば、そこで西軍を足止めしつつ、僅か三千の兵で守る佐和山城を落とすことも充分可能だったでしょう。

     もともと三成は、総大将に収まるには家康に比べてはるかに格が不足していました。その上居城の佐和山が落城した

    とあれば、西軍の結束に大きなひびが入ると危惧したとしても不思議ではないでしょう。つまり、大坂まで行かずとも

    東軍に関ヶ原を突破されるだけで、三成にとってはかなりの脅威であったといえると考えられます。

     すなわち、関ヶ原は東西両軍にとって、当初から決定的な要地であったと考えられます。少なくともおびき出し作戦

    を思いついた家康と、驚いておびき出された三成による突発的な決戦というものではなかったと考えるのが、妥当では

    ないでしょうか。


  4、決戦のタイミング

     今度は後者の疑問について考えてみたいと思います。
     家康が美濃赤坂に到着し陣を張ると、大垣城で対峙していた西軍のうち島津義弘らが夜襲を提言しましたが、三成は     首を縦には振りませんでした。また、兵の士気高揚を図って三成の家老島左近らが、杭瀬川の戦いをけしかけて東軍を     挑発しても、家康は腰を上げませんでした。      そんな両者がなぜ、関ヶ原に場所を移しての野戦による短期決戦へと一晩で移行したのでしょうか。この点を明らか     にするには、家康到着から決戦まで両者がどの程度の情報を持っていたかがカギとなるように思いますが、今の私には     史料的に検証することはできないため、あくまで論理的演繹的に考察してみたいと思います。      そこで、両者の情報については、両軍ともそれぞれ自軍の戦況しか入ってこないという、同じ条件下にあったものと     仮定したいと思います。つまり、関ヶ原の決戦前夜の東軍の背後には徳川秀忠率いる約3万8千の兵が東山道を進軍して     おり、他方西軍の背後では大津城攻めに1万5千、また伊勢方面にも安濃津城桑名城を攻略・守備している兵が控えて     いました。このとき、たとえば家康は秀忠軍の遅延は知っていても、西軍支隊が大津城の攻略に手こずっていることは     知らないとします。あくまで演繹的に考えるための条件設定ですので、歴史学にお詳しい方などは違和感を感じるかも     しれませんが、その点は手法上の相違としてご容赦願います。      ここでまず、決戦前までの三成の心境について推し測ってみます。西軍には、現場の総大将が12万石の文官あがりに     過ぎないという弱みと、実際の盟主である毛利輝元が幼君豊臣秀頼とともに大坂城にいるという強みの両方がありまし     た。しかし当の頼みの秀頼や輝元は、いくら催促しても大坂から動かず、やむなく当座の大将と担いだ豊臣一族の小早     川秀秋も、これまた松尾山に陣を構えたまま動こうとしません。大坂公認という後ろ盾が欲しい三成としては、大垣城     に長陣を敷きながら焦っていたはずです。そこへ、大津城や安濃津城攻略に当たっていた後続軍の苦戦が伝えられたと     すれば、焦りは更に高まったに違いありません。      そこへ家康本隊が到着し、西軍には動揺が走ります。杭瀬川の戦いで局地的な勝利を収めたものの、東軍の援軍が更     に加われば、旗色は一気に悪くなるはずです。三成はここで、出撃するか籠城を続けるかの選択を迫られました。と、     にわかに東軍進軍の急報が入りました。前回述べたように、三成としては、東軍の関ヶ原突破は危機でありました。で     すが、この押し迫った局面にあって、東軍の転進は好機とも捉えられたのではないでしょうか。つまり、家康の関ヶ原     決戦の申込みは、陰にも陽にも引き受けるべきと映ったのではないかと考えられます。      次に、家康について考えてみます。家康にとっての弱みは、奸臣家康打倒の名の下に大坂を出発した西軍に対して、     三成が挙兵したから西進に転ずるという、大義名分に欠ける点にありました。東軍の内訳は、三成憎しの秀吉恩顧大名     や、勝ち馬に乗りたいだけ(これは西軍も同じですが)の日和見大名の集団といえます。小山会議で一応の結束を確認     したものの、用心から家康は容易に江戸を出発せず、先鋒隊が岐阜城を落としてようやく腰を上げました。      家康は、赤坂に陣を張り大垣城の西軍とにらみ合いました。杭瀬川の戦いで挑発を受けたにもかかわらずすぐには動     かなかったのは、何かを待っていたからだと考えるべきでしょう。とすれば、それはおそらく徳川秀忠率いる別働隊だ     ったはずです。しかし、秀忠には9月10日までに赤坂に到着するよう指示が出ていましたが(関ヶ原本戦は9月15日)、     真田昌幸・信繁らの籠る上田城攻略に苦戦していたため、結局決戦には間に合いませんでした。      この遅滞を、徳川自前の兵を温存するための故意によるものとする歴史家もいますが、上田での敗戦振りはその域を     大きく超えています。そもそも、決戦時に既に2万ほど兵力の劣っていた家康が、先の仮定に従えばいつ西軍に後続の 援軍が加わるか分からない状況で、兵力の温存などと悠長なことをいっていられたかどうか、非常に怪しいといわねば     なりません。      とまれ、この時の家康からすれば、援軍を今しばらく待ち続ける選択肢もあったことでしょう。こうして長陣が続け     ば、全国各地で戦っている他の大名も消耗するという利点もありますが、ただ逆の心配もありました。それは、天下へ     の野望を抱き、長期戦を望む梟雄の存在です。関ヶ原の戦いが短期決戦で終わったことで、予定が狂ってしまった人物     が少なくとも2人いるといわれています。奥州の伊達政宗と、九州の黒田如水です。      政宗は、福島にあって山形の最上氏と会津の上杉氏が共倒れになるのを待ち構えていました。また豊前中津を拠点と     する如水も、九州を転戦して着々と勢力を広げていました。大垣での対陣が長引けば、政宗や如水をはじめ、各地戦で     消耗した小勢力を取り込んで、本当に天下を狙えるほどの勢力が成長しかねませんでした。その可能性が視野に入って     いたため、家康は完全な優位を確立するまで待たずに、関ヶ原決戦の誘いを三成にかけたと考えられます。      こうして両者ともに短期決戦へと傾いていき、前節のとおりおそらく関ヶ原で衝突することは了解の上で、夜陰に紛     れて移動を開始したのではないかと思います。


  5、おわりに

     以上、長々と書き連ねてまいりましたが、これでもおそらく関ヶ原の戦いという日本史上最も大きく最も重要な合戦

    の1つについて、ごく一部を指摘したに過ぎないと思います。ただ、こうした取り組みが、昨今の安易なオモシロ歴史

    への志向に一石でも二石でも投じることが出来ればと考えています。

     今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


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